答えはいろいろ

フランス語の先生に出されるお題がいつも面白いので日本語でも意見を書き留めておく

たくさんの史上初 マリーキュリー

キュリー夫人でお馴染みのマリーキュリー。

1867年、ポーランドワルシャワで生まれる。

5人兄弟ですが、お姉さんが若くして病死、続いてお母さんも亡くなってしまう。

この時代ではそう珍しくないのかもしれませんが、ショックですね。

教育者である両親の影響もあってか、マリーキュリーは小さい頃からとても賢く、5カ国語を話し、16歳で高校卒業(通常は18歳)。

5カ国語を話すものの、当時のポーランドはロシアの支配下におかれ、ロシア語以外の言葉を話すことは許されていなかったそう。

さらに、当時のポーランドではサイエンスを女性が学ぶことは非常に難しかったそう。

そんな中、彼女のお姉さんが医者になる勉強をすべくパリへ行きたいと言う。

マリーキュリーは彼女の目標を叶えるため家庭教師をしてお金を稼ぎ支援する。

家庭教師をしていた貴族の息子と恋に落ちるが、身分の違いにより結婚反対され、相手の男もにえきらず失恋。

すでにパリに渡ったお姉さんにパリにきて勉強しないかと誘われるが、失恋が尾を引きいったん断る。

しかしマリーキュリー24歳の時、サイエンスの勉強のためパリへ渡りソルボンヌ大学へ入学。

独学で勉強していた化学、普通に話せると思っていたフランス語が授業となると全然わからない、と逆境続き。

にも関わらず、彼女は最終的にトップの成績で大学を卒業、不屈の精神。

ちなみにパリでは女性もサイエンスの授業を受けることはできたものの、生徒総数2000人に対し、なんと女性23人。

 

マリーキュリーは最近ベクレルにより発見された放射能という物質に興味を持ち、研究しようと思う。

そんな中、ピエールキュリーに出会う。当時、研究室長みたいな肩書き。

ピエールはマリーにぞっこん。マリーがポーランドに帰ったり、ピエールがラブレターを送ったり、なんやら色々あって、二人は結婚。二人の娘を持つ。

ピエールとマリーは力をあわせて放射能の研究を、パリ大学から与えられたおんぼろ研究室で行う。

その結果、ポロニウムラジウムを発見し、1903年ノーベル物理学賞を受賞。マリーは女性初のノーベル賞受賞者

しかしその3年後、ピエールは荷馬車に轢かれる事故に遭い亡くなってしまう。

当時彼はソルボンヌ大学で教授をしており、彼の後任としてマリーが講義をすることとなる。

当時マリー39歳、女性で初めてこのポスト(教授職)に就いた。

教授職をしながらも彼女は研究を続け、その結果とうとうラジウムを単体で分離させることに成功し、ノーベル科学賞を受賞。

この受賞の直前に、マリーとポール・ランジュヴァンの不倫騒動が週刊誌によってリークされる。

ポールは妻帯者で4人の子供を持つ父。これがスキャンダルと見做され、マリーの受賞は危うく見送られそうになったが、彼女は毅然とした態度で受賞式に参加。

しかしながら、この件の影響で彼女がアカデミーの会員に選ばれることは生涯なかった。

第一次世界大戦中、彼女は負傷した兵士を治療するための、放射線治療搭載の車を製造。およそ100万人の兵士がこのトラックにより助けられたそう。

この車はpetite curieと呼ばれ、これをきっかけに彼女への世間の評価はポシティブなものに変わった。

他にも、ラジウムはいくつかの癌の治療に有効だということを突き止め、これがcuriethèrapieの基になった。

67歳でたくさんの放射能を浴びたことなどが原因で癌となり亡くなる。

 

大事なところだけまとめてもこんなに膨大。

決して恵まれてばかりの人生ではなく、むしろ逆境もとても多かったように思う。

彼女は私の大好きな歴史上の人物の一人。彼女の粘り強さ、不屈の精神は本当に尊敬する。

当時、化学の勉強をすることさえ難しかった状況。勉強するためにパリへ向かったものの、授業について行くもの精一杯。質素なアパートで冬の寒さを凌ぐために持っている洋服を全部きて、持っている本を布団の代わりにしたという逸話もあり。そんな苦労をしつつ、最後にはトップで卒業。

ピエールとの研究のためにパリ大学から与えられた研究室は家畜を飼っていた小屋のようなところだったという。

3トンのウラニウムからたった 1グラムしか抽出できないラジウムを取り出すために超過酷な肉体労働をする。

並々ならぬ努力です。

そして、ピエールは良き研究者であり、良き夫であったと思う。

最初、ノーベル賞はピエールに対して贈られる予定だったそう。女性軽視の社会の影響でしょう。しかしそこでピエールは、いや、これは二人の研究結果だから、妻にも賞を与えてください、と申し出る。

もし彼が欲にまみれた男だったら、一人で受賞していた可能性も十分あると思う。

そして、二人の子育てを手伝ってくれたのは、パリ郊外に住んでいたピエールの父。この時代に、夫の父親が子育てを手伝うなんて、かなり革新的だったのではないかと思う。

もちろんマリーは天才で努力家で、彼女の努力がなければこの結果はなかったと思うが、ピエールと結婚したことでかなり人生いい方向に変わったのではないかと思う。

 

そんなわけでマリーキュリーは私の尊敬する化学者です。